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保次郎一家の移民生活


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移民の生活

 初期の日本人移民たちは、ハワイのサトウキビ・プランテーションや、ワイオミング州・モンタナ州・ユタ州などの鉱山労働、西部各地の鉄道建設を主な仕事とした。そのほか缶詰工場、製塩業などの仕事もあったが、いずれも低賃金労働ばかりだった。葉巻き製造、製靴、衣服製造といった高賃金の職業は、すべてヨーロッパからの先住移民が占めていた。

 日本人移民たちは、米国本土の港に到着すると、たいてい日本人の経営していた安ホテルに泊り、人夫供給業者に仕事を割り当てられ、季節労働者として働いた。

 人夫供給業とは、労働者に鉄道や鉱山や農場などの働き口を紹介する仕事である。ワシントン州シアトルの東洋貿易会社、オレゴン州ポートランドのS伴商店、カリフォルニア州サンフランシスコの日米勧業社など大規模な会社組織の業者があった。こういうところに行けば働き口を世話してもらえるという情報は、渡米案内書にも記載されていた。

 人夫供給業者は働き口を斡旋するかわりに労働者の賃金から斡旋料を取った。業者はボスと呼ばれたので、このような労働者供給のしくみをボスシステムという。

 ボスシステムは、初めて渡米してきた者が米国文化に適応するためのステップでもあった。一般の労働者よりひと足早く渡米したボスたちは、ある程度日米両方の教育を受けており、英語を話し、米国生活のノウハウを身につけていた。移民はどんな仕事をしようとどこで働こうと自由だったが、米国の事情もわからず英語も話せないのでは、英語のわかるものに従いついて行くしかない。人夫供給業者は、必ずある程度英語を理解できる者をリーダーにして、労働者を派遣した。

 季節労働には、農期になると農業労働、冬季になると鉄道労働をするというパターンがあった。

 カリフォルニアでは、2月中旬から11月まで、大工場の原料となる作物や市場向け野菜、果樹のための農作業が続いた。また、ある農場は砂糖大根、ある農場はアスパラガス、また別の農場はオレンジというように、農場によって作るものは別々なので仕事は断続的にあった。そして農作業のない冬季には鉄道で働く。

 鉄道は賃金が一番安かったため、はじめは鉄道で働いていても、だんだん農業へシフトしていった。そして米国に慣れてくると少しでもよい条件を求めて移動した。

 そうやって経験を積んでお金を貯めると、日本人移民の多くは独立して農業をやるようになった。1910年頃までは景気や条件が良かったこともあり、ある程度のお金を貯めることができたらしい。彼らは、安い未開墾地を買って耕し、農地に変えていった。

 日本人移民が農業をするようになったのには、いくつか要因があった。一世の多くが農家の出身だったことや、炭鉱や鉄道の労働力として必要とされなくなってきたことが考えられる。また、結婚して家庭を持つためという理由もあったようだ。

 独身の一世が日本人女性と結婚するには、新聞記者や貿易商人、または農民であることが条件だった。そういう職業でなければ、結婚相手の女性に対して日本政府がパスポートを発行しなかったからだ。だからといって、教育を受けていなければ新聞記者や貿易商人になることはできない。しかし農民になれば結婚できるのなら、農業をやろうと思うのは自然の成り行きだろう。

 米国で家庭を持つと、出稼ぎ目的で渡米した日本人移民も定住を目指すようになった。稼いだお金で「故郷に錦を飾る」のではなく、商売を始めたり土地を所有したりするのである。

 しかし、定住しようとする日本人移民たちの前には、日本人の排斥(排日)という問題が立ちはだかっていた。

参考文献
北村崇朗 著 『一世としてアメリカに生きて』  草書房 1992年
黒川省三著 『アメリカの日系人』 教育社 1979年
鶴谷寿著 『アメリカ西部開拓と日本人』 NHKブックス 1977年
粂井輝子著 『外国人をめぐる社会史 近代アメリカと日本人移民』 雄山閣 1995年

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