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保次郎一家の移民生活


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排日問題

背景

 米国本土に渡った日本人移民の多くは、主に農業で活躍した。渡米当初、日本人は機敏で正確に働くことから農業労働者として重宝された。地主や仲買人たちは日本人の労働力を確保するため、かれらを小作人にした。

 やがて、日本人は借地して野菜や果実の栽培をするようになる。腰を落ちつけて農業に取り組めば、土地を所有することもそれほど難しくなかった。初めは出稼ぎ目的でやってきた日本人移民たちも、定着を目指して土地を所有するようになった。

 しかし、渡米当初のように低賃金労働に甘んじている間は重宝がられたが、渡米生活が長くなって向上心を持ち、土地を所有したり賃金の高い職業に就くようになると、かつての中国系移民と同じように排斥されるようになる。

 1900年代になると、ハワイから渡航する者を含めて日本人移民が急激に増え、白人下層労働者たちの日系移民排斥は激しくなった。有色人種に対する差別的な感情がそうさせていた。しかしその差別感情を刺激したのは新聞であり、またそれを利用したのは当選を目的とした政治家たちだった。

 この「排日」の動きはやがて1907(明治40)年のハワイから米国本土への渡航禁止、1908(明治41)年の紳士協定へと発展した。

1913年カリフォルニア州外国人土地法

 1913(大正2)年5月19日、カリフォルニア州で外国人の土地所有を禁止する「外国人土地法」(排日土地法)が成立した。これによって市民権を持たない日本人移民は土地の所有を禁止され、3年以上の借地も不可能となった。

 外国人土地法の意味するところは、農業労働者あるいは借地農としてなら日本人もカリフォルニアの農業に携わることを認めるが、それ以上の野心を持ってはならないということだった。しかし、この法律には抜け穴もあった。日系二世である自分の子供の名義で土地を購入したり、市民権のある自分の子供や白人の友人を入れた会社組織で土地を購入あるいは借地するというような方法である。

第一次大戦

 「外国人土地法」が通った翌年の1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発した。日本と米国は連合国側で共同戦線を張ったこともあり、排日運動は一時的に緩んだ。しかし戦争が終わると再燃し、1920(大正9)年に一般投票で新たな土地法が成立することになる。

 第一次大戦後には、日本人の農業進出と出生率の高さが問題になった。在米日本人会や日本語新聞が米国市民として登録するように熱心に啓蒙していたことも、在米日本人を増やすことで米国を支配しようとする「陰謀」だとみなされた。

写真結婚の廃止

 外国人土地法は日本人移民の結婚の理由を増すことになり、「写真花嫁」の渡米が増えた。独身でいると賭博や酒におぼれてしまう男性社会を健全化し、日本人移民にとって「唯一の権利」と「唯一の保障」であると考えられたアメリカ市民権を持つ子供を生むためにも、妻が必要とされたのである。

 しかし排日勢力にとって写真結婚は格好の攻撃材料となった。白人から見れば奇妙な風習だったし、写真花嫁は紳士協約で渡米を禁じられている労働者であると非難された。

 当時の新聞では、農業労働する写真花嫁たちを「奴隷」と報じていた。女性の農業労働は、当時の日本の農村では普通のことであり、写真花嫁たちも自分を「奴隷」とは思っていなかったかもしれない。しかし米国では女性の労働、とくに農業労働は良俗とはみなされなかった。そこで在米日本人会は女性の日曜労働を自粛するように啓蒙した。

 また、たくさん子供を生むことが警戒された。米国生まれの子供には市民権が与えられるため、日本人にとって子供を持つことは「唯一の権利」であり「唯一の保障」であると考えられた。だが、白人優位主義の人々には、日本人の子供が増えることは日本側の陰謀だと受け止められたのだ。

 こうした排日世論を緩和するため、太田サンフランシスコ総領事は在米日本人会に参事を召集し、写真結婚の禁止勧告決議案を採択させ、外務省主導という形ではなく在米日本人会の要望という形で日本政府に停止を求めた。日本政府は1919(大正8)年12月に写真花嫁への旅券を発給しないことを宣言し、翌1920(大正9)年2月末をもって旅券発給は打ち切られることになった。

1920年外国人土地法改正

 排日勢力が問題にしたのは、写真結婚そのものよりむしろ写真花嫁たちが子供を生むことだった。1913年の外国人土地法では、日本人の親が米国生まれの子供の名義で土地を購入することを取り締まれなかった。そこで写真花嫁への旅券発給が停止されると発表されると、カリフォルニア州の排日勢力は外国人土地法改正を目標にした。

 1919(大正8)年、カリフォルニア州上院議員J・M・インマンを中心に排日諸団体が集まってカリフォルニア州排日協会が作られ、9月にスタックトン市で第一回大会を開き、以下の5項目を要求していくことを決議した。

1.紳士協約を廃止する
2.日本人移民を絶対に禁止する
3.写真結婚を廃止する
4.東洋人移民を永久的に禁止する法律を制定する
5.憲法修正14条を修正し、米国に生まれても親が帰化不可能外国人の場合には市民権を得られないようにする

 1920(大正9)年8月には8万5000人の署名が集まり、住民の提案による立法化の請願が成立した。11月の一般投票で、賛成66万、反対22万という圧倒的多数によって提案は承認され、外国人土地法が改正された。これで帰化権のない日本人移民は借地もできなくなり、また子供名義で土地を購入することもできなくなった。

 投票に先がけて、在米日本人団体は時事特別委員会を設け、寄付を募り、日本人の貢献をアピールする運動をしていた。農業に貢献する日本人の存在をアピールしたり、小冊子を配布したり、有権者にはがきを送ったり、新聞に広告を載せたりした。またオークランドのジョン・P・アイリッシュを中心とする東洋人排斥反対グループも外国人土地法改正反対運動を展開した。しかし覆すことはできなかった。

 この外国人土地法はやがてワシントン州、ネブラスカ州、アリゾナ州、テキサス州、オレゴン州、モンタナ州、アイダホ州にまで広がっていった(オレゴン州、モンタナ州では否決され、成立しなかった)。

 数々の排日事件が起きて在米日本人社会の不安はつのった。日本人移民は帰国するか忍従の生活を覚悟して定着するかの選択を迫られた。多くの日本人移民はこの1920年くらいまでの時期に帰国した。永住を決意したのは諸事情により日本に帰ることが出来ない人たちだった。

1924年の排日移民法

 1924(大正13)年には、「排日移民法」と呼ばれる新移民法が実施された。これによって日本人の移民は全面的に禁止された。米国に残った日本人移民は孤立し、帰国しないかぎり定着して永住するということはできなくなった。

 日本人の帰化権が許されるのは、1952年に在米日本人にも帰化権を付与するウォルター・マッカランの新移民帰化法が発効されてからとなる。これ以後ようやく日本人の帰化が始まり、「日系アメリカ人」という言葉が定着するようになった。

参考文献
北村崇朗著 『一世としてアメリカに生きて』 草書房 1992年
黒川省三 著 『アメリカの日系人』 教育社 1979年
鶴谷寿 著 『アメリカ西部開拓と日本人』 NHKブックス 1977年
粂井輝子 著 『外国人をめぐる社会史 近代アメリカと日本人移民』 雄山閣 1995年

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