祖母の人生
先週、祖母が亡くなった。
本家をご覧になった方ならご存知かと思うが、「保次郎一家の移民生活」という曽祖父(ひいおじいさん)のアメリカ移民時代のことを書いたコーナーがあり、そこに登場する「保次郎の娘」が祖母である。その祖母が、90歳の人生を終えた。
今年に入ってから急に弱ってしまい、2月末の時点であと1ヶ月くらいだろうと診断されていた。もう老衰なので手の打ちようがないということだったし、大往生の部類に入るので半ば諦めはついていた。それでも、ブドウ糖注射が効いたらしくて1ヶ月ほど延命できたのだけど、5月11日、とうとう逝ってしまった。
思えば、祖母の人生の前半は激動的だ。
日本人移民の子として1914年にカリフォルニア州で生まれ、11歳までその地で育った。現地の学校に通っていて、当然英語も話せた。当時、父親である保次郎(私の曽祖父)は農場を営んでおり、そこではいろいろな人種の移民たちが雇われて働いていたというから、祖母は農場主のお嬢様だったということになる。
その後、日本に帰って来てからはフツーに日本人として暮らし、女学校を出て結婚した。新婚時代は横浜の鶴見に住んでいたそうだが、第2次世界大戦のためド田舎の実家に疎開。戦後はもはや都会に戻ることもなく、そのまま実家で実の両親と同居し、夫と農業を営みながら子供たちを育てたそうな。
アメリカ時代は日本よりずっと進んだ生活をしていたはずだし、日本でも横浜に住み続けていればハイカラな暮らしができたかもしれない。英語ができたんだし、夫はサラリーマンだったんだし。それがどういうわけか山奥のド田舎に引っ込んでしまい、とても不便な、ハイカラとは縁遠い暮らしをすることにしたわけだ。
きっと都会で暮らすよりも、実の親のもとで子供を育てるほうが楽だったんだろうなあ。農家といっても、アメリカ時代とは違って貧しかったらしいが、それでも祖母の後半生は穏やかで落ち着いた暮らしだったのだろう。
どちらがいいとか悪いとかっていうことはないんだけど、なんだか不思議な人生だと思うのだ。
ちなみに父たち兄弟は全員東京で就職し、首都圏に家を構え、今に至っている。祖母が田舎に引っ込まなければ彼らもまた違った人生を送っていたかもしれないし、そうすると孫の私たちも全然違う生活をしていたり、あるいは生まれていなかったりと、何かが変わっていたかもしれない。そういう連綿と続くつながりを考えると、さらに不思議な気がしてくる。
ところで、今回の祖母の死をきっかけに、曽祖父の残した大量の写真をデジタルデータ化しておくことにした。100年以上前の写真なのですでに銀鏡が出てしまっているが、アメリカ時代の写真なんて本当に貴重だと思うので、これ以上劣化が進まないうちにスキャンして取っておこうというわけだ。といっても、自宅でスキャンしているので、そう高性能なデータになるわけではないけど。
あとは、オリジナルの写真プリントを保管する方法も考えなければならない。以前、東京都写真美術館の研究員の方に話を伺ったところ、中性紙の包材や箱に入れて、温度・湿度の差が少ない場所で保管するのが良いとのことだった。中性紙の箱は手に入るだろうけど、保管場所は難しい。どこかに、蔵とかワインセラーとか貸してくれる知人はいないかしら。

というわけで、左の写真がそのカメラ。「PP35」と書いてある部分がシャッターで、その下にある黒い部分がピンホール窓(写真上)。